
安達爽太郎
西部講堂
2003年福岡生まれ。京都在住。Semi-underground Press共同主宰。西部講堂連絡協議会加盟員。アナキズムを中心とした社会思想に関する論考の執筆、展覧会評や都市にまつわるZINEの制作などを行う。また、京都や大阪、香港などで上映会やトークイベント等を企画・主催。現在、雑誌『TENSEGRITY』(創刊号特集:空間をめぐって)創刊に向けた編集・執筆を行なっている。
Instagram@strrrr_rr
Instagram(西部講堂)@seirenkyo
西部講堂での活動について
京都大学の西部講堂という場所の自主管理・運営を行う組織である、西連協に加盟し、普段の運営に携わっています。万人に開かれている西連協は、各人が自由に、演劇、音楽、映画上映、トークイヴェントなど様々な企画書を、月に2回の定例会議に提出し、加盟員で審議を行っています。その企画が可決されれば、誰でも企画を打つことができます。そこに、年齢や属性に関わる格差は存在しません。様々な方が、様々な仕方で関わり合い、西部講堂を使用する、すなわち自治を行っているのです(そのため、今回のイヴェントでの発言も、わたしが西部講堂を代表するなんてことはできるはずもなく、そこに関わる人間の1人として好き勝手に発言しているものとして理解してもらえると嬉しいです)。
また、イヴェントの開催だけでなく、日々の掃除や設備の拡充など、地道な作業も行っています。ぜひ、イヴェントに遊びにきて感じてください!
問題意識
まず、「関西」という区分を設けるのが適切なのか疑わしいということを指摘しておきます(また、「関西」という単位で何かを考えるとき、それに対置するものとして「関東(≒東京)」が提示され、その消費社会的な側面を批判することに終始してしまうことがしばしばあります。それが無意味とは言いませんが、そのようなドメスティックな比較・検討に閉じてしまうことは、今回のイヴェントにおいて――少なくともわたしにとって――重要ではないでしょう)。
その上で、グローバルなアート・シーンにおいて、〈場〉を作っている人々が、ローカルな文化/経済/政治状況に揉まれて生じる課題や問題意識を共有することは重要でしょう。そこで浮かび上がってくる問題は、必ずしも土着的なものではなく、むしろ関西を超えて国際的な問題であることだろうと思います。それは、現在の国際的な諸情勢を見れば明らかなように、ポピュリズム/ナショナリズムが台頭し、リベラルな価値観の後退が目立ち、GoogleやOpenAIに代表されるようなデジタル・サーヴィスを介して思考・記録の一元化が起きる時代状況においては問題となる事象そのものが国際的であるからです。
だからこそ、(登壇者を超えた)みなさんが関わるあらゆる〈場〉を通した豊かな実践によって――わたしは西部講堂での活動を紹介することによって――いわばマルチチュードとして、オルタナティヴな〈場〉とその在り方を模索できる時間になれば、と思います。






自分も読んだときからずっと離れない次の一文を考える手立てになることを願っています。「繋がりをめぐる凡庸な物言いの数々、例えば、SNSは孤を保ちながら繋がることであるとか、グローバルな繋がりが何か新たなものを生み出すとか、専門職間の繋がりが孤独を癒してあげられるとか、繋がりの蓄積は資産であるとか、その類の物言いの退屈さを拒絶するだけでなく、繋がりそのものを憎むことである。」(小泉義之「応答2 反戦運動の破綻の後に――ダーク・ドゥルーズに寄せて」アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』河出書房新社、2016年、p.193)
長谷川新(インディペンデントキュレーター)
投資と賭け事の大きな違いは、賭け事とは結果の予想に過ぎないことに対して、投資は投資それ自体がチャレンジを生み出すということだろう。それどころか、投資を呼び込まないことには、勝ちがあり得ないにも関わらず、それを呼び込むための言動は本質的に嘘や詐欺と何ら変わらない。
属人的な権能は、それを求める者の性質や多寡によって維持され、下の世代には分与する形で移譲されることになる。
これは何も深遠な話ではなく、人の噂話では、誰が誰と仲が良いだの、対立しているだの、お気に入りだの派閥だのと言う話題には事欠かない。
そのくだらなさをキャンセルするためには、とにかく実質を問うていくしかない。そのためには、問いの鋭さが人格の傷つけと無関係である空間を作り、搾取ではなく貢献と栄誉の調和した配分を行い、集まりの成功が誰にとっての成功でもあるように作り上げる必要がある。
そして若者には、チャレンジする権利が与えられているだろう。
gnck(評論家)
コロナ禍以降、先行世代が築いたインフラのもとで活動していけば良いという見通しは失われた。それぞれの人間関係と土地において、活動を可能にする場そのものを手作りし、立て直さなければならない。それは楽しくもあり、苦しくもある強いられである。すべてがオルタナティブになった時代の厄介さ。
さらにそうした場を、ばらばらなままつなぐには、その場の内部での経験を、そこに居合わせなかった者にも受け取れる形へと翻訳する必要がある。これは今この時の他者に対してだけの問題ではない。当事者もまた、時が経てば、かつての場から弾き出され、外部となっていかざるを得ないのだから。私たちは何が楽しく、何がつらかったのか? 「場の内外の翻訳」を考えるとは、未来の年長者である自らと、そのときの若者らを対等に対話させるための場づくり――メタスペースの設計――でもあるはずだ。「記録」について考えるのもまた、そういうスケール感を持つことなのだと思う。
山本浩貴(いぬのせなか座)